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フラッシュ〜自立に挑むレディ

左利きのトラウマ、それほど悪くないかも 永岡留美



 小学校で初めての授業。もうわくわくどきどきで、目を皿に耳をダンボにし、先生の一挙手一投足に注目していた。
「みんなわかったかな?」と先生が言った。
わかった、だからすぐに手をあげたい、うずうずしながら次の言葉を待っていた。
「じゃあ、わかった人…
よし手をあげるぞ、と心は準備万端だったが、次の言葉は「右手をあげて」だった。

 その途端、私は狼狽してしまい、結局手をあげることができなかった。答えはわかっていたが、右手がどちらなのか判断できなかった。自然にあがる手は右ではないらしい、私は左利きで、当時、左と右の区別で混乱していた。右手という言葉だけで石のようにかたまってしまったのだ。

 好奇心旺盛、新しいことを知ることが楽しくってしかたなかった子供にとって、授業で「手をあげられなかったこと」がショックだった。手をあげたい、そのためには左右の区別をつける工夫が必要だった。私がしたことは、手をあげるときに食卓の光景を思い浮かべること。私の席はテーブルの左隅、母は左側、私の右隣りは兄だった。いつもこの光景を思い浮かべ、母のいる方が左、兄の方が右と確認し、兄がいる方の手をあげるようにした。左右を確認する間が必要だったため、私が手をあげるのはいつも少し遅かったが、時々あててもらえることもあった。食卓の光景を思い浮かべることは癖となり、鉛筆を持つときも、箸をもつときも、大人になって教習所でウィンカーを出すときまでもその癖は続いた。

 「手をあげられなかったこと」はトラウマとなったが、このトラウマは、手をあげるための動機付けでもあった。そう考えると、トラウマもそれほど悪くない。食卓の光景を思い浮かべるたび、「手をあげる」ことに対し自覚的になった。また、左右を確認する癖は、左と右にかかわらず、二つの視点を確認し、そのバランスの中に自分の身を置くことの癖となった。以降、ほぼ10年おきにくる人生の転換期に、この食卓の光景を思い浮かべた。30歳でワープロオペレータとして入社し、社長から「やってみない?」と言われた仕事に対し、「やります」と手をあげつづけ、翻訳という天職にめぐりあえた。40歳で米国に留学したときも、食卓の光景を思い浮かべながら行くぞと決めた(手をあげた)。そして、50歳になる今、左右を確認する癖が、翻訳者として日本語と英語の二つの視点を持つ癖となっている。

 人生は人との出会いで大きく変わる。仕事上チャンスを与えてくれた社長に感謝するとともに、しつけにうるさかった小学校の担任にも少し感謝だ。おかげで、「手をあげること」に一生懸命になれたのだから。


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